大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和36年(オ)1029号 判決

上告人 江上政一

被上告人 大西末松

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人弁護士村沢義二郎の上告理由第一点について。

上告人の妻富はその存命中自己の名義で独立して呉服類の行商をなし、判示のとおりの売掛代金債権を有していたが、自己の借財が被上告人に覚知されるや、昭和三十二年七月下旬頃から家出し、同年八月二十二日自殺したこと、上告人は右富の死亡による相続が開始されるや同年十月三十一日金沢家庭裁判所に相続放棄の申述をなし、同年十一月八日それが受理されたこと(この申述及び受理の点は争がない)、然るに上告人は右相続開始後であり且つ右相続放棄の申述及びこれが受理前である同年八月三十日頃右売掛代金中の前多徳次に対する金三〇〇〇円の分を取立てて収受領得したことは原判決挙示の証拠によつて認定されたもろもろの事情及びこれに追加して挙示されている証拠に徴し優に首肯でき、その認定の経路に所論違法のかどあるを発見できない。所論はるる論述するが、ひつきようするに、右認定事実と相容れない事実を主張しながら、原審がその裁量の範囲内で適法になした事実認定を非難するものでしかない。そして上告人が右のように妻富の有していた債権を取立てて、これを収受領得する行為ば民法九二一条一号本文にいわゆる相続財産の一部を処分した場合に該当するものと解するを相当とするから、上告人が判示爾余の債権を如何ように処置したか否かの点を審究するまでもなく、上告人は右処分行為により右法条に基づき相続の単純承認をなしたものとみなされたものと解すべきである。従つて、結論において同趣旨に帰した原判決の判断は正当といわなければならない。

同第二点四について。

しかし上告人において前示処分について悪意のあつたことは前示認定事実から容易に窺い得べく、原判決もこれと同様の判断をしたものであることは、原判文上明らかであるから、所論は採用できない。

同第二点一ないし三及び五について。

前示所論第一点について述べたとおりの理由で原判決が正当である以上、所論の点はすべて原判決の主文に影響のない所見であり、従つて、所論はすべて判決に影響ある重大な法令違反を主張するものとは認められない。それ故、所論も採用できない。

よつて、民訴四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 入江俊郎 裁判官 高木常七 裁判官 斎藤朔郎)

上告代理人村沢義二郎の上告理由。

第一点

一、衣類の行商が上告人の営業であつたか、江上富単独の営業であつたか、が本件における重要な争点である。原判決はこれを江上富単独の事業であると認定した。

二、上告人は居村で農を営み且つ古物商を営み、衣類の行商を営んできたものである。富は妻として上告人の営業をたすけてきた。上告人は古物商の許可を受けていたが古物のみを取扱つてそれ以外の営業は出来ない、と言うものではない。古物商と雖も古物商の行商の行為をしつつ、併せて新しい衣類の行商を営むこともあろうし、古物行商から新品の商いへ事業を発展させることもあるのであつて、これは取引の実情として不思議なことではなく当然に予想もされ、推測もされるところである。従つて上告人が古物商とともに衣類商を営んでいたとしても何等の不思議はないのである。

三、原判決は、上告人が昭和二十二年以来古物商を営んでいることを認め、別に江上富が自己の名義で独立して呉服類(新品)の行商をしていたと認定し、同一世帯の中にあつて夫婦が別々の営業をしていたものと判示したのであるが、片田舎の農家である上告人の家庭に於ては具体的な働き手は誰れであろうとも経営者の地位にあるものは家庭の主人と言われる上告人であることはこの土地に於ける一つの常識であつて、妻である富は夫である上告人の仕事を助けていたものに過ぎない。仮令行商に歩くものが富であつて、それが外部から見ると富の営業の様に見えたとしても、実体は、経営者は上告人であり、富は従業員の立場にあるのである。

四、物品販売の経営には先ず仕入れがあるが、その仕入れ先きの隈田一男は

「被告江上政一は私方へ商品を買いに来られ知るようになりました」

「右商品代金を私は被告から貰つたこともありますし、又同人の妻江上富から貰つたこともあります」

「被告の妻富は、右の様な許可証をもつていなかつたようです。同人が私方へ来るのは被告の家族として被告の使いに来ていたのであつたと思います」

と証言し

天光武房は乙第五号証に関連し

「これは私達同業者の組合員名簿には江上政一とあるので政一宛にしたものと思います」

と証言しているが、卸商人の方は上告人を取引の相手方としていたものである。

五、本件の営業が上告人の営業であるか、富個人の営業であるかについて、その間の事情を最もよく知つているものは、家族乃至親族であるが、これについて、両名の子である松井和子は

「父は終戦後間もなく呉服類の行商を始め営業名義も父として税金も父が払つてきました」

「母は父の商売の手伝をして居りました」

と言つているが、これが事の真相を単純率直に語つているのである。家庭内の事情を最も知つている和子の証言は甚だ信憑性の高いものである。

上告人の兄江上作次郎も上告人家の事情を知悉している一人であるが、同人も

「政一は呉服商をして居ります。田舎ですから店はなく行商をしております」

「政一は他人は雇わず自分と妻富とでやつて居りました。

営業名義は政一で終戦後からやつて居りました。

富は手伝いをして居りました」

と証言しているが、誰れが衣類商経営の主体であつたかを率直に述べているのであつて、この陳述内容は常識に適つているのである。

終戦後繊維製品が不足し且つ統制されていたころ既成衣類の取引が一般にひろく行われていたが、これを営業としてする場合は古物商の許可が必要であり、上告人もその許可をうけて取引を続けて営業し、妻富がこれを手伝つていたものである。

衣料が豊かになり統制が撤廃されて以後も田舎に於ては衣類の行商は尚或る程度商売としてなり立ち得るので上告人はこれを続けてきたのであつて、古物は上告人、新品は妻と言う様な区別は全然ない。一貫して上告人の経営であつたのである。

六、従つて右の営業から生れた売掛金債権はこれは上告人の権利であつて、富の相続財産ではない。

原判決は、(一)富は呉服の行商をし、自ら仕入れ、販売し、集金していた(二)富はその収益中から上告人に金を渡した(三)富が借財するときに森口に「女の商売に言々」と言つた(四)上告人に対する税金の中に、富の行商による収益が算入されている等の事実を挙げて衣類行商営業は富個人の営業であるかの如く認定しているが(一)は富が為した仕事の外形であり、(三)は富の片言隻句に過ぎない。(二)は事実と違うが、富が収益を上告人に渡したと言うことは(四)の上告人の税金の中に衣類行商の利益が算入されているとの認定とともに、営業は却つて上告人のものであつたことの資料ともなるものである。

七、思うに事実の認定と証拠の採否は原審の専権に属するところであるが、上記述べた様に、係争の衣類行商行為はその仕入れ先の証言から見ても、近親の証言から見ても、又、片田舎の家庭に於ける所謂主人(本件上告人)の経済上の地位から見ても、終戦直後古物商として出発した上告人の衣類取引営業の発展の経過から見ても、これを上告人の営業とし、富は妻としてその手伝をしていたものであると認定することが、社会の通念によく合致するものと思料されるのであるがこれに反する原判決の証拠の採否と事実の認定は、要するに社会の通念、経験則に反するものと言わざるを得ない。

第二点

一、原判決は「相続放棄の申述前から右受理後においても富の遺産である訴外前多徳次、同浅井文衛門、同角井佐一郎、同前多乙次、同上野織江に対する前記債権を右作次郎や娘の訴外和子をして取立せしめて収受領得し、他方昭和三十二年十月十五日亡富の財産目録を調整するに当り、さきに取立、収受した債権分及びその余の前記債権(この債権の存在を知悉していながら)を殊更に記載せず、また爾後の報告書にも記載しなかつたことが認められる」

とし、而して

「右認定の様な所為は民法第九二一条第一号の「相続人が相続財産の一部を処分したとき」に及び同第三号の「相続人が放棄をした後でも、相続財産の一部を隠匿し、私にこれを消費し、又は悪意でこれを財産目録中に記載しなかつたとき」に該当するものということが出来るので、被控訴人は亡富の遺産について単純承認をなしたものとみなすべきである、

と判断している。然し右判断については次の様な疑義がある。

二、第一に原判決は「上告人が前多徳次外四名に対する債権を、作次郎及び和子をして取立せしめて収受領得したと認定しこれが民法第九二一条第一〇号の「処分」に及び第三号の「隠匿」、「消費」に該当すると判示したが、右五個の取立行為のどれが「処分」に該当し、どれが「隠匿」に該当し、どれが消費に該当するかを明らかにしていない。

この点に於て理由不備の違法がある。

(弁論の充当を具体的に明示しない判決は理由不備とされた判例あり。-大正九年(オ)第八七四号、同一〇年五月二四日大審院民一-大正一三年(オ)第四五〇号、同年一二月二四日大審院民三-)

三、第二に、原判決認定の五個の取立行為の全部又は一部が果して民法第九二一条第一号の処分に該当するか否かを考えてみるに、同条の所謂「処分」は保存行為と第六〇二条を超えない賃貸借を含ませていないが、この点から見るならば債権の取立の如きも同条の「処分」の中に含まれないものと解するのが妥当ではなかろうか。只、取立てたことの事を以て直ちに同条の「処分」あつたものとすべきでないと解せられる。更に「隠匿」及び「私に消費した」と言うことについても、債権の取立が必ずしも、「隠匿」に該るものではなく又「私に消費した」ことに該るものでないのであつて、原判決が上告人が作次郎や和子をして取立せしめて収受領得したことが「処分」「隠匿」「私に消費した」に該当すると判示するには、その取立の前後の状況、経緯、取立後の措置、当事者の意思を充分に審理した上判断すべきものであるが、原判決にはこの点に於て審理未だ充分ならざるものがある。即ち審理不尽があると言わなければならない。

四、第三に、元来民法第九二一条は、相続人の不正行為に対する一種の民事的制裁として単純承認の効果を発生させる規定であるが、この規定によつて単純承認の效果を受けしめられる相続人は尠くとも処分行為を為すについて悪意あつた場合に限らるべきものと解さねばならない。すなわち相続人に於て処分し或いは消費した財産が被相続人の相続財産であることを知りつつ、しかもこれを処分し消費したと言う場合にこそ民法第九二一条の制裁を必要とし且つ妥当とするのであるが、これを知らず却つて相続人自身の財産なりと信じて処分、消費した場合には第九二一条を適用すべきではないと解すべきである。本件に於て上告人が係争債権を取立てたのは全くはじめから自己の営業から生れた自己の債権なりと信じていたからであつて、これを亡富の権利であるとは全然考えていなかつたのである。即ち全く善意で行動していたのであつて、この様な場合仮令取立てた債権が富のものと解されようとも、上告人に民法第九二一条を適用すべきでないのである。この点に於て原判決は民法第九二一条の解釈を誤つて適用した違法があり、この違法は判決に影響を及ぼすものである。

五、第四に原判決は、上告人が昭和三十二年十月十五日亡富の財産目録を調整するに当り、さきに取立、収受した債権分及びその余の前記債権を殊更に記載せず、また爾後の報告書にも記載しなかつた、と認め、これは民法第九二一条第三号の「悪意でこれを財産目録中に記載しなかつたとき」に該当するものと判示したが、同条項の「財産目録中に記載しなかつたとき」と言う規定は、民法第九二四条により財産目録調整義務を有する限定承認の場合に関する規定であつて、相続放棄の場合に適用のないものである。

(同趣旨、大審院昭和一四年(オ)第四一六号、同一五年一月一三日民三判例)

本件は相続放棄の場合であるから、右第三号の「財産目録中に記載しなかつたとき」の適用がないのにかかわらず、原判決がこれを適用したことは法令の解釈を誤り上記判例に反しているのであり、この違法は判決に影響を及ぼすものであること言うまでもない。

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